あなたは潜在的な引きこもりなんですよ。
きょうさん@q_ohhhですよ~。
最近、まだ若い男の子の知り合いから恋愛相談を受けました。
どうも一方的に思いつめています。
その想われ人の方も私は知ってるんですが、話を聞くと、この男の子のことをなんだか煙たがっている。というか、うざがっている。
で私は思ったんですね。「あ〜こりゃあいつ、依存してんなあ」と。
好きと依存は似て非なるものである!!と。
なんですかね。こじらせてるんですよね。
どこかで好きという感情がねじ曲がって、別のものに変質している。
若者「自分、絶対あの子のことは幸せにします!!」
私は、この「絶対」という言葉に疑問を感じますね。
絶対なんてあるわけないじゃないですか。
「絶対」とか「愛」とか、相手にされてないところで言い始めると危うい感じがします。
「君は依存してんじゃないのか?」と私は、その若者にいいました。
現代のカップルのあいだのトラブルの大半は、この依存傾向から発していると私は考えていて。
やれ束縛がどうの、やれ浮気がどうの、そんな奇形の幻想を相手にぶつけあって、なにが楽しいんだと私は思います。
コンプレックスのぶつけあいなんですよね。
現代は、とくに多いんじゃないでしょうか。
むける目線が、内面に内面にむかっているのが現代です。
自分の内面より外の世界を生きよ
目線が内面にむかえばむかうほどコンプレックスcomplex(複合体)は極まる。
外が見えなくなる。みんな潜在的な引きこもりなんだよな。
スマホばっかいじっている。
「斎藤さん」という、知らない人と連絡しあうアプリがあります。
私はインストールしてませんが、シェアメイトがインストールしている。
その子に画面を見せてもらったのですが(シェアメイトは女の子)こじらせたコンプレックスが、歪んだ性欲と化してしまっている連中ばっかりだ。
てかチ◯コ出してたし…さすがにひくよ…
そんな場所ぬけだして、もっと大きな外の世界で生きてゆくべきなんだと、これは思想上の大きな問題なんだと、私は考えています。
「人間は外の世界を見てはならない。自分の内面をのぞくべきである」というコトバがあります。
キリスト教ドグマの本質です。
フリードリッヒ・ニーチェが喝破しました。
そしてニーチェ、これは人間を殺すドグマなのだとしています。
私は、現代の日本には、キリスト教が行き渡っているのだと考えていますよ。
キリスト教統治の悪辣さは、中世で終わっているわけではありませんよ。
中世の神に祈って涙流す奇形図と、J-POPの愛にむかって気も狂わんばかりの現代人は、本質が一緒なんですよ。
コンプレックスを逆手に取られてますね。
音楽やドラマが「愛」を喧伝するからなあ。
愛一直線の現代人は精神病です。
「愛」という場所に逃げこんで、自分を正当化するんじゃない。
それは「好き」ということとは、まったく関係のない感情なんだ。
これも、ニーチェが『現代語版アンチ・クリスト キリスト教は邪教です!』(講談社+α新書 2005年)で、指摘していることです。
キリスト教は邪教です! 現代語訳『アンチクリスト』 (講談社+α新書)
もっと大らかな気持ちで誰かを好きになれたら、そこには依存もコンプレックスもない
「愛」なんて言わず、ただゆっくり好きでいましょうよ。