自己啓発は、心理学の死体
ども。哲学バカのきょうさん@q_ohhhですよ〜。
自己啓発、興味ありますか?
僕、ぜんぜんないんですよ。
なんかポジティブさが気持ち悪い…。
だから、その系統の本も読んだことないです。
「ある種の人にとっての癒しなんだろうなあ」ってくらいにしか思わない。
まあ現代社会はストレスも多いでしょうし。
健康・掃除・瞑想くらいまでなら、わかるかな。
「わかるかな」というより、僕自身、気を付けていることだ。
銭湯にいったり部屋をきれいにしたり、自分が気持ちよく仕事するために、生活には気をつけています。
風呂に入って、無心でぼーっとしてるとき、「あ、これが瞑想か」なんて思うし。
部屋が散らかってると、ストレスで仕事できませんし。
肉体的に気持ちのいいことを、僕は日々行ってるわけですね。
と、そこまではいいんだけど、「ポジティブでいこう」的な、精神的な世界にいっちゃうと「なんだかな~」と思っちゃう。
アメリカの心理学者アブラハム・マズローが、いまの自己啓発の流れをつくったらしい。
マズローといえば、よく言及される人間5つの欲求の体系。
- 生理的欲求
- 安全欲求
- 社会的欲求(帰属欲求)
- 尊厳欲求(承認欲求)
- 自己実現欲求
僕はこれ見ても「ふうん」としか思いませんが。
なんか意味あんのこの図?
僕から見れば、マズローの段階で、心理学は科学であることをあきらめてしまったんですよ。
心理学は、科学をあきらめた。
じゃあ科学とは何か?
科学とは、事実+数式なんですね。
「事実」ってのが重要で。
科学時代より前の話。
神学では、事実は必要なかったんです。
事実の代わりに、ネオプラトニズムに適っていればよかった。
ムズカシイ言葉ですが、ネオプラトニズム(新プラトン主義)に適っていれば、理論として通用してたのが神学。
ネオプラトニズムに関しては、今日は書きません。
その神学を打ち倒そうとしたのが、科学。
いま僕らは科学の時代にいます。
神学の骨格だったネオプラトニズムの代わりに、事実をつかおうよ、というのが科学。
それで、「パブロフの犬」だとかいって、条件反射がどうのこうの、事実にもとづく研究を心理学は行ってきたわけです。
ただ数式化できなかったんだよね。
心理学は、事実には強かったけれど、数式に弱かった。
さっきも書いたように、科学=事実+数式
一方、経済学はまるで逆。
経済学は、事実に弱いけど(実験できない)、数式化できた。
心理学も経済学も、それぞれ欠陥があるという事なんですね。
どっちも科学になりきれてないんですよ。
ちょうどマズローの1960年代くらいで、社会事象を科学で分析することは不可能という事が発覚したんですね。
日本人も頑張ってたんですよ、社会科学を確立するために。
小室直樹博士という人が、がんばってました。
でもムリでした。
だから、科学になれなかった心理学は、行き先を失ってしまったんですよ。
その末路が自己啓発。
それは科学でもなんでもなく、ちょいカルト臭さの漂う麻薬。
社会科学の失敗については、この本が詳しいです。
自己啓発が生まれた流れ
ちょい長いけど引用。
フロイトが始めた精神分析では、ひとは無意識のなかに性的欲望を抑圧していて、それが神経症のようなこころの病の原因になる。
有名なエディプスコンプレックス説では、男性は誰でも幼児期に母親との性的関係を欲望し、それが父親に禁止されることで去勢の恐怖に怯え、自我の葛藤が生じるとされた。
しかしマズローは良識ある大人なので、「ひとのこころは性の欲望に支配されている」というフロイト理論を額面どおり受け入れることはできなかった。
20世紀初頭にワトソンやスキナーなどアメリカの心理学者によって提唱された行動主義は、心理学を「科学」にすることを目指した。
彼らは、こころや意識といったブラックボックスはとりあえず脇に置き、刺激と反応のような客観的に観察可能な行動だけに焦点を当てたが、いかんせん当時の貧弱な研究環境では、イヌにヨダレを垂らさせたり(パブロフのイヌ)、ハトやネズミにボタンを押させる(スキナー箱)くらいのことしかできなかった。
ヒューマニストのマズローは、当然のことながら、人間を刺激と反応に分解する行動主義にはぜんぜん満足できなかった。
そこでマズローは、精神分析と行動主義に代わる第三の心理学として、「人間性心理学」を提唱した。
心理学はなによりも、愛情、創造性、価値、美、想像、倫理、喜びなどの「精神的本性」を解明するためのものでなくてはならず、過去をあら探しして抑圧された性の欲望をえぐり出したり、ハトやネズミに芸を教え込んだところで、こころの謎を解くことなどできなるはずはないのだ。
とまあフロイトが創始した心理学、これが結局、科学になりきれなかった。
だからマズローというほぼ新興宗教の教祖みたいなのが出てきて、心理学の殻をかぶった「自己啓発」なるニセモノ科学ができあがったわけです。
これが、どうも当時のアメリカ人にウケたらしい。
ヒッピー全盛の頃ですから。
彼らも苦しんでたんですね。
このへんは、現代日本の若者と同じでしょう。
僕らも苦しみの時代にいる。
必死に生きながらも、なぜ生きているのか、ちょいちょいわからなくなる。
だから、自己啓発に手を伸ばそうとする気持ちも僕はわかるよ。
わかるけども、僕は否定派。
肉体の喜びならすげえわかる。
部屋や体をきれいにしていたい。
気持ちいいから。
精神の喜びは、全然わかりません。
ヒッピーの時代には麻薬も流行った。
基本的に夢を見ていたい風潮。
社会変革よりも、自己改革という名の夢に走った風潮。
この夢が、僕にうさん臭さを感じさせる。
僕ら現代人は、ムリな夢に対してトラウマがあるんだと思う。
オウム真理教というトラウマがある。
自分を変えるということは、夢の中で行うんじゃなくて、現実の泥臭さの中でジワジワやるしかない。
僕自身も、神経質でストレスを感じやすい性質をどうにかしたいですよ。
ただそれが、夢の世界で変えれるとは思ってないです。
夢見ている暇があったら、部屋の掃除をしたいです。
そして何故か、哲学が自己啓発の1ジャンルになっている現状
哲学書が、ライトな装いされて、なぜか自己啓発のジャンルになっているという日本のいびつな現状。
いっときますが、哲学と自己啓発は、何の関係もないですよ!
哲学というコトバの曖昧さがまねいた現状です。
これは、哲ガキの執筆者として強く指摘しとかなければ!
哲学書のライトな装いはいいんですよ。
だいたい「哲学」のコトバからしていまいちよくわからんから。
でもね。
哲学は、自己啓発とは無縁のもの。
哲学って本来、人々の生活を支配する構造のことです。
いちばんわかりやすい例だと、お金。
金(マネー)は、哲学なしには生まれてきませんでした。
中世の神Godも、哲学が生み出したものです。
金(マネー)も神も、構成要素は同じなんです。
今日は書きませんが、存在論Ontologyが根っこにあって、お金や神が生まれたんです。
存在論をつくった人間が、古代ギリシャのパルメニデス。
そして、時代によって支配の構造はバージョンアップしなければならない。
神が金(マネー)にバージョンアップしたように。
このバージョンアップの中身を思想thoughtというんですね。
哲学はパソコン本体で、思想はOSのこと。
僕らの時代のOSは、「人権」という思想。
ジャン=ジャック・ルソーというのがつくったOSです。
だから、哲学と自己啓発は何の関係もないんですよ。
関係なさすぎる。
今日の哲ガキ的まとめ
現代日本において、自己啓発の道具になってる哲学。
こりゃ救い出さないといけませんね。
自己啓発というニセモノ科学と、哲学というコトバの意味不明さの相性がいいんだろうなあ。
もし本当に、「よりよく生きたい」という願望があるのなら、ニセモノ自己啓発ではなくて倫理学。
この本が、倫理学のみならず、すべての哲学、すべての思想の根幹を成した最高峰の著作。
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