僕は気や霊、ある程度まで理解するタイプです。
「そんなもんあるわけねえだろ」とは思いません。
僕自身はバリバリの現代脳、科学脳なので霊は見えはしませんが、あってもおかしくないとは思っています。
自分の見える世界が全てではないですからね。
「気」はあるのか、ないのか
僕は、これまでずいぶん文章を書いてきました。
飛び飛びながら10年くらい書いてるのかな。
文章に悩んで、一切書けなくなったこともあります。
そんな僕がたどり着いた文章の極意。
それは、文章に「気」が宿っていればいい文章なんだ、ということです。
これは人と会話する時も一緒なんですが、人と話す時って考えすぎるとギクシャクするじゃないですか。
考えすぎると言うことは、つまりは緊張してる状態なんですが、こういう状態の人と話すとコッチもぎくしゃくしてきます。
テレビのバラエティでも、緊張しすぎの新人芸人さんがよくスベることがあります。
場の空気に馴染まないことを言ったり。
それで周りが一瞬シンとなって。
ベテラン芸人さんが笑いに持っていくという。
考えすぎると周りが見えなくなってしまう。
周りと気を通わせることができない。
ギクシャクしてしまう。
これ、同じことが文章においても言えるわけで、考えすぎてグロテスクになってしまった文章は誰も読まんです。
会話と同じように、その場のノリにヒョイっと乗った文章じゃないと誰も読んでくれません。考えすぎてカチコチになっちゃいかんです。
今も私は、そのことを意識しながら書いています。
周囲と自分の波長を合わせる。これを「気」というのではないか。
だから、私たちは科学脳をしているから「気」がどうの言ったってドラゴンボールの世界なんですが笑
(あ、ドラゴンボール超のDVD。予約しようかいな。)
「気」の概念。
私は、ドラゴンボールだけではないと思ってますよ。
合気道にも「気」の字が入っている。
私たちの抱える「科学」なるものへの信仰も、これはつくられたものですから。
キリスト教のセクト争いの中から、科学はつくられたんです。
「理性」を神の代わりに据えて、これを信仰するのだ、とイマヌエル・カントが決めたんです。
カントの本は、ここ極東の日本でも翻訳されて出版されている。
でもこれ、読んでも眠くなりますよ。
このカントの「純粋理性批判」が、私たち現代人のバイブルなんです。
科学脳の聖書。
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だからカントから離れると、世界はスッと大きく広がってゆく。「気」があってもおかしくない。
周囲と自分の波長を合わせたとき、楽になるし、何事も上手くいきます。
なにかを極めようとする人は、必ず「気」というものの存在に気づくんじゃないでしょうか。
それはスポーツ選手でも、芸人でも、僕のような文筆家でも。
「気」の話は、これからまた書いていきたいですね。神秘主義というイジメられた思想についても、いずれお話しできると思います。