三島の正真正銘の代表作は「海と夕焼け」だ
三島由紀夫。
代表作は、一般に「金閣寺」や「豊饒の海4巻」と、いわれていますね。
でもこんな分厚いページ、三島の、あの独特な文体でいつまでも読めるものではなし。
疲れますよ。
私がもっとも没入した作品は「海と夕焼け」です。
新潮文庫でいえば、短編集「花ざかりの森・憂国」に収録されています。
三島自身があとがきで「私の一生の主題を凝縮して示そうとしたものだ」と言及している。
「花ざかりの森・憂国」あとがきp285より引用
『海と夕焼け』は、奇跡の到来を信じながらそれが来なかったという不思議、いや、奇跡自体よりもさらにふしぎな不思議という主題を、凝縮して示そうと思ったものである。
この主題はおそらく私の一生を貫く主題になるものだ。
よく知られているように、1970年、三島は、自衛隊の市ヶ谷駐屯地で割腹して果てた。
まだ45歳の頃です。
アタマがスバ抜けていい人だから戦略があったはずで、三島によって今後100年、200年の日本文化は守られたんです。
三島の割腹は、そうとうに戦略的な行動だと私は考えています。
日本文化におけるイエス・キリストの役割を三島は担ったんです。
食やお金のような消化すれば忘れられる需要でなく、100年、200年スパンの需要として三島は自分を使ったんです。
この欧米文化の強い時代、日本文化はついに消えないでしょう。
三島が人々の記憶に刻印したんですよ。
三島は象徴、シンボルになったんです。
人間がどうしても抱える「奇跡自体よりもさらにふしぎな不思議という主題」を担ったんですよ。
「奇跡自体よりもさらにふしぎな不思議という主題」は、僕は存在のことだと考えています。
なんで生まれてきたのか?という事。
三島は、常に存在の不思議を描いてるんですね。
でも結局、「なんで?」の先には、ただただ、あるがままの現実を生きるだけ。
触れ得るこの現実が全て。
三島は、肉体を愛するようになります。
ボディビルやったりね。
三島の作品は、そこかしこに、肉体への執着が見てとれます。
だって、観念のなかに答えはないのだから。
なんで僕がこんなことを言っているかといえば、8/24。よく晴れた夕刻。
もう晩夏と呼べる季節。
僕は夕刻のベンチに座っていて、草原に散らばる夕日の照り映えが眩しかったんです。
しばらく放心状態で。
あくせくした日常から、全然離れたところにいました。
なにも考えていませんでした。
(もう夕日の照り映えが終わったあと)
日常や自意識から離れると、残るのはただこの世界の不思議だけ。
不思議のうちに、照りはえる夕日の美しさ。
美しさって、ときに恐くないですか?
美しすぎて恐ろしい、ということがある。
それでふと気づいたんです。
「海と夕焼け」と同じだな、と。
「海と夕焼け」の背景
「海と夕焼け」は、鎌倉時代の晩夏が舞台です。
主人公の老僧・安里(アンリ)。彼の生涯が描かれます。
海辺で夕焼けを眺める安里。
「海と夕焼け」。
鎌倉時代が舞台といいましたが、正確には1272年です。
1272年といえば、ユーラシア大陸で世界大戦が起こっていた頃。
その余波を「元寇」というかたちで受けた日本。
いまも博多にはモンゴル軍を迎え撃つための石塁が残っています。
ユーラシア大陸のど真ん中で、モンゴル軍とイスラム帝国(エジプトのマムルーク朝が強かった)、あとはチョロチョロとキリスト教の十字軍が入ってきていました。
これが入り乱れての大戦争。
当時のバグダッド、現代でいえばニューヨーク、あるいはロンドンにあたります。
バグダッド、攻め落とされて廃墟になったんです。とんでもない乱世です。
世界戦争がはじまる前、というのはチンギス・ハン即位が1206年ですから。
ここからユーラシアの中央地帯を奪ったところでチンギス・ハンは死にます。
本格的な世界戦争は、1258年の世界都市バグダッドの陥落からはじまるんですね。
「海と夕焼け」の主人公・安里(アンリ)。
日本で暮らすフランス人です。もう年老いた寺男。
彼は激動の時代を、世界の中心から外れながら生きました。
戦争は、彼にはまったく関係なかったんです。
当時のフランスは、中世の産業革命を経て、高度成長期のあとくらいですね。
キリスト教の最高神学者・トマス・アクイナスが現れたのもこの時代。
そんな、経済も政治も神学も大変動を起こした時代に、安里は背をむけて仏道のみを目指してきました。
十代の頃の激しい体験を、ずっと背負っていたんです。
十代の頃が人間を規定する
ネタバレになるんで詳細は書きませんが、安里は十代の頃の激しい体験を背負ってるんです。
十代の頃の世界観って、いつまでもその後の人生を規定しませんか?
ことに感受性の激しい子であればあるほど、自分の悩み、苦しみを世界で唯一の特殊な事態だと思いがちで。
僕も十代の頃は、感情の動きがとんでもなく激しかったです。
このブログのプロフィールにも書いてますが、家出、旅、誰もが寝静まった深夜に詩作に没入したり。
あの頃の苦しみは、表現しようにも表現できない。
僕の場合は、文学や哲学に傾倒することで、あの嵐の時期を堪え忍ぶことができました。
それをいまも引きずっていて、このブログも哲学ブログとして発信しています。
その苦しみも思い出もすべて、海と夕焼けのなかに溶けてゆく。
年老いた安里は、岬にたたずんでいます。
迫る夕闇、山の麓から梵鐘の響きが、海も夕焼けも長い年月もすべてを溶かしていく。
この安里の時代から、僕はおよそ750年後の21世紀を生きていますが、人間の不思議は変わらない。
生きることの不思議が、こんな晩夏の夕暮れに突如あらわれて、「美しさ」という奇怪な姿をとったまま消えない。
考えても考えても、最後に残るのは夕焼けだけ
「奇跡自体よりもさらにふしぎな不思議という主題」とは、あなたのことなんです。
そして、「あなたは何者なのか?」と尋ねても、理屈にまみれた意味論に終始するだけ。
結局、夕焼けがこたえを奪って、意味もコトバもなくなるまで待つしかない。
世界には、あまりにも眩い夕焼けが残るだけ。
奇怪なほどに美しい世界。
このどストレートな美しさが、人間の最大の不思議。
意味は終わった。でも、まちがいなく存在している美という不思議。
三島は、この主題を軸に最後の著作「豊饒の海4巻」の執筆にむかいます。
第3巻の「暁の寺」は、この主題を理屈で追いかけます。
大乗仏教の「唯識論」を用いて、「奇跡自体よりもさらにふしぎな不思議という主題」に迫るんですね。
世界や存在を解体していったら、最後になにが残るのか?を唯識論で追いかけます。
唯識論は、古代ギリシャのロゴス論と似ています。
それでもやはり、仏教理論の理屈はどこまでいっても理屈。
きわめて絵画的に描かれた「海と夕焼け」の方が「奇跡自体よりもさらにふしぎな不思議」を描写してあまりない、と僕は感じています。
絵画であり音楽でもある。
これはやはり小説にしか表現できないことで。
なので僕は「海と夕焼け」をベスト・オブ・三島としてあげたいと思います。
「あなたという存在は、どこにありますか?」
「海と夕焼け」は、そのことを問うているんですよ。
あまりにも美しすぎる夕焼けが、そのまま答えであり、不思議さは募るばかり。