哲学者、井筒俊彦の『イスラーム生誕』を読む【書評】

宗教は血縁を越える

哲学者のきょうさん@q_ohhhです。

宗教religionは血縁を否定する。

人間の動物としての本能である血縁を否定します

イスラムの創始者はマホメッド(ムハンマド)。

マホメッドをあつかっている『イスラーム生誕』(井筒俊彦著 中公文庫 2003年)という本。

このなかでマホメッド、何度も何度も「血縁を越えた新しい共同体をつくるんだ」と主張しています。

だから血縁というのは人間にとって、とても大事なものなのだけれど、その反面、他者を抑圧するということもあるわけで。

血縁ってやっぱ最強ですよね。

僕の子供の頃のこと。

友達の家に遊びにいくと、友達の母親は良くしてくれる。

それでもふとした時に「とはいえ、自分はやはり他人なんだ」と思う一瞬があって。

それはたとえば食事のとき友人専用の皿があったり、私にはよくわからない話をして盛りあがっていたり。

そんなとき、僕はふと小さな小さな疎外感を感じていました。

そういう小さな疎外感は日常にいくらでも溢れていて。

たとえば友達のカップルと僕、3人で楽しくお酒を飲んで、それでも最後はカップル2人寄り添って帰っていくとか、もう数えあげればキリがない。

当然、僕の方も誰かに疎外感を抱かせることもあって、でもそんなこと言ったってキリないし、だから僕らみんな、小さな疎外感を日々積み重ねて生きているともいえる。

カップルの例はあてはまらないけれど、やっぱり血縁というものは、ほかの何にも増して強い絆があって。

他人はやはり「どんなに近くにいたとしても他人でしかない」というのが人間のルールなのかと。やっぱり。

政治家も企業も。世襲が普通でしょう。

血縁というのが、この世で最も強い結びつきなんだ。

僕だって赤の他人より自分の家族が大事ですし。

この血縁が強くなりすぎて、他者を排除しつくすと、いちばん下のほうから激しい怒りが生まれるんですね。

もう我慢ができないんだ。

どうやっても底辺から這い上がれないから、

抑圧された者の、不満、劣等感、羨望、憧れというものが混ざり合って高められて、世界宗教は生まれたんです。

「身内で固まらないでよ。もっと私のことも愛してよ」と。

イスラムだけではなくて、ユダヤ教もキリスト教も同じ。

太宰治は「家庭の幸福は、諸悪の根源」と、バッサリ切り捨てている。

宗教のない国にデモクラシーはない

「血縁否定」の、最果てがデモクラシー(民主政治体制)ということです。

国家の支配者は、血縁で決まるのではなくて選挙で決めるのだと。

「王様なんて絶対に許さないぞ!」という話ですね。

だから日本人には未だにデモクラシーの本質がわからないんです。

血縁国家ですから。

「正確には血縁イデオロギー。義兄弟の関係。年上は年下におごるでしょ?アレのこと」

血縁否定のデモクラシーから、ドイツのヒトラーにしろフランスのナポレオンも出てくるわけで。

どうも「神政政治(Theocracyテオクラシー)」の歴史がない国には、デモクラシーは根づかないのではないかと、僕は考えています。

長期にわたる宗教世界、綿密な神学にもとづいた、何百年単位にわたる神政政治のないことには、デモクラシーはない。

神政政治ありきで民主政治が生まれたんですよ。

日本にデモクラシーはないですからね。

投票なんていかないよ。

投票する有権者は、血縁と地縁で投票する相手えらびます。

身内意識のなかでしか投票になんていかない。

「血縁びいき」「身内びいき」を、やっぱり日本人はやってしまう。

小室直樹氏は、「デモクラシーは優曇華(うどんげ:3000年に一度咲く)の花」といいました。

なかなか咲かないのが、デモクラシーだということです。

というより、全宗教のめざす最終到達地点がデモクラシーなんです。

デモクラシーは、宗教思想の結晶なんです。

でも、なかなか完成しない結晶。

「もっと愛して」の最果ての場所。

イスラムなどの宗教も「もっと愛して」が起点なら、現代人のお題目である「人権human rights」もまた他人である私を「もっと愛して」から出てくる。

「血の繋がりはないかもしれないけれど、他人の私をもっと愛してよ。」

「人権human rights」は巨大な問題をはらんでいるけれど、人権から僕が実感の部分で受けている恩恵は保険証と図書館ですね。

保険証は言わずもがな、僕は毎月皮膚科にいきますし。

図書館でなら数万円もしてなかなか手が届かない辞書を無料で索引できる。

人権という名の「人工愛」に包まれているのが、現代の日本人といってもいいんでしょう。

政治思想のおおまかなまとめ

「自然法〜自然権〜人権」という流れがあって、この3つはそのまま政治思想の区分です。

副島隆彦氏が、このことを『世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち』( 講談社 1999年)で明らかにしました。

「自然法〜自然権〜人権」のなかでしか、政治思想はあり得ないわけです。

いわゆる右翼や左翼の話も、この枠組みのなかでしか話せないんです。

「自然法〜自然権〜人権」と不断の流れがある。


  1. 自然法=人間は永遠の相 Eternal aspectのもとに生きるべき
  2. 自然権=人間は生まれながらに経済の自由をつかむ権利がある
  3. 人権=人間は生まれながらに、経済だけではなく各種の恩恵を受ける権利がある

これら連綿とつながる発想なんです。

まるで虹のように。

1~2~3と不可分につながっている。

まるで虹のようにつながっていく世界観を、新プラトン主義といいます。

Neo Platonismネオ・プラトニズム。

新プラトン主義は神学Theologyの骨格なんです。

新プラトン主義をなぞらないと神学の話はしてはならないんです。

アウグスティヌスというキリスト教の理論家(キリスト教内部でいまも最大の影響力をもつ)が、そう決めたんです。

「ローマ帝国末期の話ですね。」

「自然法〜自然権〜人権」も新プラトン主義の、いわば虹の色彩から決して出てはない。

だから僕は思うんですけども、僕らは神学の世界にいるんです。

日本人に神学の歴史はない。

それでも突然、神学世界が1945年の悲惨な敗戦のあとにやってきた。

日本人は頭が割れてしまう。

「愛」だけを唱える、かわいそうな家畜みたいな日本人だらけになってしまった。

J-popというのは愛を唱える家畜の歌なんです。

最近はもう、とうとう動物みたいな歌だらけになってしまった。

だから僕らは、神学の世界にいるんです。

神学は、科学と対立する観念です。

ちょうど科学が、事実にもとづく事をルールとするように、神学は新プラトン主義にもとづくことをルールとするんです。

そして日本人には、そんなの不可能なんです。

デモクラシーとか人権とかないんです日本には。

保険証と図書館だけあります。

死ぬほど税金むしりとりながら国が用意してくれています。

ただそれだけです。

なぜなら日本に神学はないからです。

盲目のまま、愛を歌うしかないんです。

哲ガキ的まとめ

あんまりにもひどい身内びいきをされてしまうと、現状から出ていけない貧乏人たちが怒る。

それがイスラムなんかの宗教なんだと。

宗教であり革命なんだと。

でも日本人は怒らない。

日本人はぶつくさ言うけれど、そこで終わる。

宗教、神学がないから。

日本に革命は起きるのか?

というのは、日本にイスラム教が根づくのか?

というのと同じくらいの難問。

いや愚問かもしれない。

現代日本人の「もっと愛して」は、どこに吸収されるだろう。

これが吸収されたとき、日本人は復活するんです。

やっと戦後は終わるんです。

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